“昨夜、一枚の写真を見て衝撃を受けた。 この写真は、原爆が落とされてまもなくの1945年9月、廃墟の長崎で写されたものだ。撮ったのは米空爆調査団のカメラマンとして日本を訪れた、ジョー・オダネル軍曹。 以下は、彼がこの写真を撮ったときの回想インタビューからの引用だ。 「佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺め ていました。すると白いマスクをかけた男達が目に入りまし た。男達は60センチ程の深さにえぐった穴のそばで作業をし ていました。荷車に山積みにした死体を石灰の燃える穴の 中に次々と入れ2015-06-23

“昨夜、一枚の写真を見て衝撃を受けた。

この写真は、原爆が落とされてまもなくの1945年9月、廃墟の長崎で写されたものだ。撮ったのは米空爆調査団のカメラマンとして日本を訪れた、ジョー・オダネル軍曹。

以下は、彼がこの写真を撮ったときの回想インタビューからの引用だ。

「佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺め

ていました。すると白いマスクをかけた男達が目に入りまし

た。男達は60センチ程の深さにえぐった穴のそばで作業をし

ていました。荷車に山積みにした死体を石灰の燃える穴の

中に次々と入れていたのです。

10歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。お

んぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。

弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は

当時の日本でよく目にする光景でした。しかし、この少年の

様子ははっきりと違っています。重大な目的を持ってこの焼

き場にやってきたという強い意志が感じられました。しかも

裸足です。少年は焼き場のふちまで来ると、硬い表情で目

を凝らして立ち尽くしています。背中の赤ん坊はぐっすり眠

っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。

少年は焼き場のふちに、5分か10分も立っていたでしょうか。

白いマスクの男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひも

を解き始めました。この時私は、背中の幼子が既に死んで

いる事に初めて気付いたのです。男達は幼子の手と足を持

つとゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえま

した。

まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。

それからまばゆい程の炎がさっと舞い立ちました。真っ赤な

夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を

赤く照らしました。その時です、炎を食い入るように見つめる

少年の唇に血がにじんでいるのに気が付いたのは。少年が

あまりきつく噛み締めている為、唇の血は流れる事もなく、

ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。夕日のような炎が

静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま焼き場を

去っていきました」

この写真についてこれ以上の説明は必要ないだろう。

少し調べてみたが、原爆被害を撮ったもののなかでも、この「焼場に立つ少年」はかなり世に知られた写真のようだ。中学の国語の教科書にも使われていたらしいが、僕はどうして今まで知らなかったのだろう。

僕が報道写真の世界に足を踏み入れるきっかけとなったベトナム戦争の写真はよく見ていたのだが、原爆写真はそれほど多く見た記憶がない。考えてみたら、僕は長崎には行ったことがないし、広島にも修学旅行で一度訪れただけだ。

報道カメラマンとして、すこし恥ずかしくなった。。。が、遅ればせながらでもこの写真に出会えたことは良かったと思う。

間違いなく、この直立不動の少年の表情は僕の胸に一生焼き付いて残るだろう。そういう一枚なのだ。”

ジョー・オダネル氏の回想録の中にこんな言葉がありました。「誤解しないでほしい。私はアメリカ人だ。アメリカを愛しているし、国のために戦った。しかし、母国の過ちをなかった事にできなかった。退役軍人は私のことを理解してくれないだろう。私は死の灰の上を歩き、この目で惨状を見たのだ。確かに日本軍は中国や韓国に対してひどい事をした。しかし、あの小さな子供たちが何かしただろうか。戦争に勝つ為に、本当に彼らの母親を殺す必要があっただろうか。1945年、あの原爆は、やはり間違っていた。それは100年たっても間違いであり続ける。絶対に間違っている、絶対に。歴史は繰り返すというが、繰り返してはいけない歴史もあるはずだ」

この戦争の悲しさ、虚しさ、そして原爆の恐ろしさを今日に伝えるこの写真、多くの人の胸を打つ写真ですが、しかし、そうばかりでは無いことを知って少し愕然としました。

何年か前のことなのだそうですが、スイス・ジュネーブの国連の欧州本部に「原爆常設展」という展示を開設しようとした時のこと。その準備段階で、被爆地からの原爆写真の提供ということで、長崎市がこの「焼き場に立つ少年」を提案したところ、国連職員たちによる選定委員会の審査でこの写真はあっけなく却下されたというのです。

その理由は、「直立不動の姿勢が軍隊みたいだ」、「この子は悲しいのに泣いていないじゃないか」。そんな物言いが付いたらしいというのです。たぶんは押し潰されるほどの悲しみに耐えながら弟の亡骸(なきがら)を背にこの少年は何を思っていたのか、焼かれていく弟を見送りながら血が滲むほどに唇を噛みしめていたこの少年の悲しみが如何ばかりであったか、どうしてこんな少年にそんな酷(むご)い役目が負わされることになってしまったのか、改めて戦争の非情さ、残酷さを思わずにはおられません。こんな幼い少年が焼き場に立たなくてはならなかった、たぶんはこの少年の両親たちも原爆の犠牲になってしまったのでしょう。そしてこの少年自体もあるいは沢山の放射能を浴び、その後、生きながらえることか出来たのかどうかもわかりません。※.原爆投下直後の長崎に入ったオダネル自らも長い間、間接原爆症に悩まされていたそうです。

この弟の亡骸を背負い悲しみにじっと耐えて直立する少年のこの健気さ、痛ましさはあるいは「人前では泣いてはいけない」等の戦前の教育を受けた人でなくてはわからないことなのかも知れません。しかし、泣き喚くのでもなく、じっと唇を噛みしめて悲しみに耐えるこの少年の姿に、前記の国連職員のように必ずしも胸を打たれる人ばかりではないのだということに複雑な思いを抱かざるを得ません。

実はこの時、長崎市ではこの写真を提案する以前の段階で「被爆の悲惨さを知ってほしい」と、背中一面が焼けただれた被爆者の写真など十数点を用意したのですが、国連側からは「子供の見学者も来るので、ショッキングな内容は困る」と退けられてしまったのだそうです。ならば「この写真を」と代案として提案されたのが、この「焼き場に立つ少年」の写真でしたが、これも却下されてしまいました。

この時のやり取りの中で、「悲惨な目に遭ったのは原爆だけじゃない」、「ホロコースト(ナチスのユダヤ人大虐殺)の常設展も申請がある」、「南京虐殺はどうなる」等の意見も出されたのだそうです。

結局、この時の展示は国連の軍縮・核不拡散の歩みを紹介する展示となり、原爆の記述は11枚のパネルのうち2枚にとどまったといい、またこの時に使われた写真は、広島・長崎の焼け跡と、衝撃度の少ない被爆者の後ろ姿の3枚だけであったのだそうです。

この写真を撮ったオダネル氏はアメリカ帰国後、被爆者たちの悲惨な姿の記憶に悩まされる中で、それらのネガを自宅の屋根裏部屋のトランクの中に閉じこめて、43年間封印してしまっていたのだそうです。

しかし晩年になって、オダネル氏は原爆の悲劇を訴えるために、この写真を公開し、アメリカの告発に踏み切ったのだそうです。「私たちの国がこの少年をこのような目に遭わせてしまったのだ」という思いから、アメリカ国内でも小さな写真展などを開いて核廃絶の訴えを続けていたそうです。

しかし、このオダネル氏の取った行動は、原爆投下の効果を信じるアメリカ国内からの多くの非難の声を浴びました。嫌がらせを受けたり、オダネル氏の妻までもが去って行ってしまったのだそうです。

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